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日本の未来を守った英雄!神風特攻隊!


(漫画)未来の日本人を守った英雄、神風特攻隊になるとどうなるのか。(マンガで分かる)

戦争が終わってから約80年。
日本は大変平和な国になりました!
経済大国としていまや立派な国になっています。
これもひとえに戦争を戦った英霊たちによるものではないでしょうか。

matomatto.hatenablog.com
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今回は、神風特攻隊について紹介していきます。


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神風特攻隊について

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神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい、しんぷうとくべつこうげきたい)は、第二次大戦で大日本帝国海軍によって編成された爆装航空機による体当たり攻撃部隊(特別攻撃隊)と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊。攻撃目標は艦船。略称は「神風」「神風特攻隊」。隊名の発案者・猪口力平によれば、「神風」の読みは「しんぷう」であるが、当時のニュース映画で「かみかぜ」と読み上映したことでその読みが定着した他、アメリカ軍が神風を読み間違えて「カミガゼ」と呼んでいたので、戦後、カミガゼと連合国軍最高司令官総司令部GHQ)が統制したという。
神風特別攻撃隊 - Wikipedia

爆弾を抱えた飛行機ごと敵艦に突撃する。
戦争で追い込まれた日本が考え出した攻撃です。

神風特攻隊に選ばれた人たち

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特攻隊員の選抜については、大西が軍令部に航空特攻の開始を進言した際に総長の及川より「あくまでも本人の自由意志に基づいてやってください。決して命令はしてくださるな」と念を押されたように、原則は本人の志願に基づくものとされていたとする意見もあるが、一方で、最初の神風特攻隊「敷島隊」の指揮官となった関の志願を命令に近い打診だったと考え、初めから志願者のみという原則は徹底されていなかったとする意見もある。志願にあたっては「親一人、子一人の者」「長男」「妻子のある者」を除外することとしていたが、これも徹底はされていなかった。
神風特別攻撃隊 - Wikipedia

必ずしも志願した者が選ばれていたわけではないようです。
選ぶ上司もさぞかしつらかったでしょう。
選ばれた方はいうまでもないですが、、、

特攻隊の破壊力

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特攻に主に使われた零戦は元より空戦用にできているため急降下すると機首が浮き上がり、速度で舵も鈍くなるため正確に突入するのが困難という意見もあり、沖縄戦時の菊水作戦中に第5航空艦隊参謀に就任していた中島正中佐が出撃する特攻隊員に「ダイブ(急降下)角は45度」という訓示をしているが、中島の訓示の後に第七二一海軍航空隊の林富士夫大尉が「中島中佐は自分が飛ばないからわからない。高い角度のダイブで突入することは不可能で、せいぜい20~30度である。突入は舷側を狙え」と中島の指示を訂正している。

突入角度が浅いと、特攻機の爆弾が敵艦を貫通しないケースも少なからずあった。特攻の戦果確認機からの過大戦果報告に疑念を感じていた軍令部次長大西が、第一航空技術廠長の多田力三中将に特攻の効果についての実験を要請している。その要請を受けて、第一航空技術廠と横須賀海軍航空隊は1945年5月に協同で、250kg爆弾を搭載した無人零戦をカタパルトで射出し、様々な角度で鋼板に衝突させる実験を行った。その結果、30度以上の角度では爆弾も機体も鋼板を貫通するが、30度未満の角度では鋼板の上を滑って機体も爆弾も跳躍してしまうことが判明した。この実験結果を見て大西は、搭乗員の心理作用で突入角度が浅くなって、結果的に特攻機が敵艦を貫通できないケースがあることを認識している。

突入角度に加えて速度についても、戦後にアメリカ軍から「適切な角度で行えば通常の爆撃より速度が速い」という分析はされているものの、上記の通り命中寸前まで機体を操縦可能という、特攻特有の利点を活かして、多種多様な角度で特攻機が命中しており、航空機による通常攻撃と比較し抜群に高い有効性を確保していたが[注 12]、一方で、浅い角度で突入した場合は、重力による加速が深い角度で突入した場合と比べると劣るため、平均的な命中速度は通常の爆撃の投下爆弾よりは遅かった。従って、特攻による艦内部の破壊は平均すると通常の航空攻撃(魚雷攻撃を含む)よりも少なく、駆逐艦においては、通常の航空攻撃(魚雷攻撃を含む)での被害艦の沈没比率は28.9%であったが、特攻による沈没率は13.7%と約半分であった。

しかし、沖縄戦で富安俊助中尉が搭乗する零戦が空母「エンタープライズ」を大破させたときの最終突入確度は50度に達しており、深い角度で突入した事例もある。一方で、フィリピンにおいて護衛空母「セント・ロー」に命中した敷島隊の零戦は、まるで着艦でもする様な高度(30m)で接近してきてそのまま時速480km/hで浅い角度で体当たりしたが、搭載爆弾は甲板を貫通、格納庫で爆発し、燃料や弾薬を誘爆させ合計7回の爆発を経た後に、特攻機命中からわずか32分後に爆沈したように、突入角度が浅かったり、速度が遅くても敵艦に深刻な損害を与えた事例も多く、一概に突入角度や速度だけが敵艦に与える損害を決定する要素とはならない。

また、特攻による損害は被害艦を沈没まで至らせなくても重篤になることが多く、特に航空燃料による激しい火災は、特攻機の激突や爆弾に加えて艦の損傷を拡大させ、多くの人員に重篤な火傷を負わせて戦闘不能にさせ、適切な消火に失敗すると艦を再起不能の損傷に至らせている。そのため、特攻機は爆弾を搭載していなくとも、極めて強力な焼夷弾となったと評している。沖縄戦においては、特攻により生じた大量の損傷艦のために慶良間列島の泊地は常に満杯であり、損傷艦は工作艦により応急修理がなされると、随伴艦と一緒に群れを成して太平洋を横断してアメリカ本国に帰還した。特攻による損傷艦の中には、護衛空母「スワニー」のように、艦設計の際に考慮されていなかった程の甚大な損傷を負った艦や、正規空母「バンカーヒル」のように、ピュージェット・サウンド海軍工廠で修理を受けた艦船の中では最悪の損傷レベルと認定された艦もあった。甚大な損傷を負った艦の中には、修理不能と診断されてそのままスクラップとなった艦も少なくない。 一方で、第二次世界大戦末期のアメリカ軍は、それまでの戦闘経験によりダメージコントロールが格段に進歩しており、特攻による撃沈率を低減させるに成功している。例えば、硫黄島の戦いで海軍の第二御楯隊が大破させた正規空母サラトガ」の損傷具合は、太平洋戦争初期に珊瑚海海戦で沈没した「レキシントン」より遙かに深刻であったと、両艦のいずれの被爆時にも乗艦していたパイロットのV・F・マッコルマック少佐が証言しているなど、大戦初期や中期においては放棄されたような状況の艦ですら救われることが多くなっていた。アメリカ軍は、特攻により大量の損傷艦が生じたのを振り返って、艦艇が沈没までは至らなくとも、多くの場合は修理のためにアメリカ本国の造船所に帰還せねばならず、作戦上の損失は大きかったと結論づけている。
神風特別攻撃隊 - Wikipedia

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命と引き換えに相手の戦艦に大きなダメージを与えていたのです。


戦死者について

階級 戦没者数 構成比率
現役士官/将校現役士官 121名 4.8%
予備学生 648名 25.6%
特務士官・准士官下士官兵 1,762名 69.6%
合計 2,531名 100%
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海軍兵学校卒の航空士官の戦没率は、海軍航空予備学生の航空士官の約2.5倍に達している。戦争の激化に伴い、士官の消耗が激しくなったことから、海軍兵学校も55期~65期までの100名~150名であった卒業生の任官を、大幅に増加させる必要に迫られた。66期に219名と200名を突破したあとも年々増加し、70期では432名、そして終戦直前の1945年3月に卒業した74期は1,024名の大量任官となった。しかし、海軍兵学校の現役士官の戦没率は非常に高く、海兵68期卒業生288名の内191名が戦死し戦没率66.32%、海兵69期卒業生343名中222名戦死し戦没率64.72%、70期は433名中287名戦死し戦没率66.28%、71期は581名中329名の56.6%、72期は625名中の337名の53.9%と高水準となっており 、特に、航空士官の死亡率が高く、例えば1939年に卒業した第67期は全体では248名の同期生の戦没率は64.5%であったが、そのうち86名の航空士官に限れば66名戦没で戦没率76.6%、特に戦闘機に搭乗した士官は16名のうちで生存者はたった1名、艦爆搭乗の士官の13名に至っては全員戦没している。

海軍兵学校卒の航空士官の補充が到底追いつかなくなった海軍は、海軍飛行予備学生を大量に航空士官として採用せざるを得ず、1943年9月に従来の、大学・旧制高等学校旧制専門学校卒業見込生という基準を緩和して、旧制師範学校の卒業見込生も有資格者とした。飛行予備学生の人気は高く、50,000名以上の志願者があったが、そのうち約1割の4,726名が選抜されて第13期生として採用された。第13期生は10か月という促成訓練で最前線に送られ、特攻が開始される前に1,607名がすでに戦死している。その後も飛行予備学生は、終戦まで第14期、第一期予備生徒と大量に採用され、沖縄戦開始時点の4月1日時点で、日本海軍の航空士官で海軍飛行予備学生の士官が占める割合は82.4%にも達していた。海軍省に対し、ある航空隊の司令官が「今や、私の航空隊の搭乗員の主力は、第13期予備学生の出身者で占められている。彼らなしでは戦えない。彼らを大量にされたことはまことに有意義なことであった」と報告した通り、日本海航空士官の主力は、学徒の海軍飛行予備学生の士官と言っても過言ではない状況となっていたが、それでも、飛行予備学生の大量採用に踏み切った以降の卒業生となる13期、14期、予備生徒1期で合計8,673名中戦没者は2,192名、戦没率25.2%と飛行予備学生全体の戦没率より高めながら、海軍兵学校卒の航空士官の戦没率の半分以下であった。
神風特別攻撃隊 - Wikipedia


およそ4000~7000人ほどの方が犠牲になっておられます。

おわりに

たくさんの国の方が犠牲にった世界大戦。
多くの人の死があったからこそいまの日本があります。
つまらないことで揉めているのも幸せなことなのかもしれません。

これからも戦争がない平和な国が続くことを祈るばかりです。


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