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人間魚雷「回天」の悲劇!敵艦に向かっての特攻、、、


【実話】人間魚雷回天…若い隊員が決死の特攻。敵艦に突っ込み爆死していく…



世間ではコロナウイルスが猛威を振るっています。
しかし、日本のは平和な国でもあります。



半世紀前には、世界大戦で多くの方が毎日のように命を落としてという事実があるということは忘れてはいけません。

matomatto.hatenablog.com




そして日本人が考えた恐ろしい作戦として「特攻」が大変有名ですね。
爆弾を抱えて飛行機で戦艦に飛び込むことで、敵国の兵士たちは恐れおののいたようです。
詳しくはこちらからどうぞ!

matomatto.hatenablog.com



今回は人間魚雷「回天」について紹介していきます。




人間魚雷「回天」とは

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回天は超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を改造し、特攻兵器としたものである。九三式三型魚雷は直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、時速48ノットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。回天はこの酸素魚雷を改造した全長14.7m、直径1m、排水量8tの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5tとした場合、最高速度は55km/hで23キロメートルの航続力があった。ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。
回天 - Wikipedia

出撃すれば命はありません。
敵艦に向かって進み続けるしかないのです。





回天の歴史

人間魚雷の構想は、ガダルカナル島攻防戦が終結に近づいた1943年(昭和18年)初頭に、現場の潜水艦関係者から浮上した。潜水艦乗組員の竹間忠三大尉は「(戦勢の立て直しは)必中必殺の肉弾攻撃」として、人間魚雷の構想を軍令部潜水艦担当参謀の井浦祥二郎中佐に対して送付した。井浦も人間魚雷の実現性を打診したが、艦政本部は消極的で軍令部首脳は認めなかった。 1943年(昭和18年)12月、入沢三輝大尉(当時、伊百六十五型潜水艦水雷長)と近江誠中尉(当時、同潜水艦航海長)は、戦局打開の手段としてまとめた
「人間魚雷の独自研究の成果」を血書と共に連合艦隊司令部(当時の司令長官は古賀峯一大将)に直送した。だが、連合艦隊と軍令部は受け入れなかった。

同年4月4日、黒島亀人軍令部第2部長の作成した「作戦上急速実現を要望する兵力」の中で、大威力魚雷として人間魚雷が提案された。この後、人間魚雷に「○6(マルロク)」の仮名称が付き、艦政本部で担当主務部が定められて特殊緊急実験が開始された。

1944年7月初旬、試作兵器三基が完成する。同月上旬、サイパン島地上戦で同島守備隊は玉砕、潜水艦戦を行う第六艦隊司令部も地上戦に巻き込まれ、司令長官高木武雄中将が戦死した。 7月10日、日本海軍は三輪茂義中将を第六艦隊司令長官に任命する。 同日附で、特殊潜航艇と人間魚雷(回天)の訓練研究・乗員養成を目的とする第一特別基地隊を編成(司令官長井満少将)。回天開発の第一人者、仁科関夫中尉や黒木博司大尉も第一特別基地隊に配属された。 嶋田繁太郎軍令部総長は、第一特別基地隊設立の経緯を昭和天皇に上奏した。回天部隊は第一特別基地隊司令官の指揮下で訓練に従事する。潜水艦に搭載されて出撃する場合は、母艦(潜水艦)と回天で「回天特別攻撃隊」が編成され、先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官三輪茂義中将)の指揮下に入った。 7月25日、回天試作機の試験が大入島発射場で行われる。第一特別基地隊司令部では、兵器として採用するか否かの審議が行われた。指摘の主なものは「酸素エンジンのため、冷走や筒内爆発の危険がある」「魚雷改造の艇のため後進ができない」「舵が推進器の前にあるので旋回半径が大きく、航行艦襲撃が困難」「試作兵器は潜航深度が最大80mしかない。母艦の大型潜水艦の安全潜航深度は100mである。試作兵器の耐圧深度を増大すべき」などが挙げられた。


マリアナ沖海戦(あ号作戦)における潜水艦の被害が判明し、潜水艦戦は続行困難とみなされた。同時に特攻への気運が高まっていった。 1944年8月1日、米内光政海軍大臣の決裁によってマル6は正式に兵器として採用された。試験で挙げられた3つの問題点は、終戦まで解決されなかった。 8月2日と3日に呉で行われた潜水艦関係者の研究会では、若手潜水艦長達は特攻作戦の採用を主張、会議の空気も同調した。 8月15日、大森から「この兵器(回天)を使用するべきか否かを判断する時期に達した」という発言があった。そして同月、大森によって明治維新の船名から「回天」と命名される。
回天 - Wikipedia

何度も採用されなかった回天の計画。
しかし、戦争も終盤に近付くにつれて、玉砕の考えが浸透していきます。






回天の操作は大変困難

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手順としては、突入直前に潜望鏡を使用して敵艦の位置・速力・進行方向を確認、これを元に射角などを計算して敵艦と回天の針路の未来位置が一点に確実に重なる、すなわち命中するように射角を設定。同時に発射から命中までに要する時間を予測。そして潜望鏡を下ろし、ストップウォッチで時間を計測しながら推測航法で突入する。命中時間を幾分経過しても命中しなかった場合は、再度潜望鏡を上げて索敵と計算を行い、突入を最初からもう一度やり直すという戦法がとられ、訓練もそのように行われた。

しかし、作戦海域となる太平洋の環礁は水路が複雑であり、夜間において潜望鏡とジャイロスコープを用いての推測航法で目標に到達することは十分な訓練を経ても容易ではなかった。当時の搭乗員は「操縦するのには6本の手と6つの目がいる」と話していたという。
回天 - Wikipedia

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通常回天はハッチを閉めると、操縦席は電球一つの暗い空間だった。身動きの取れない密室で、回天を操るのは困難を極めた。回天は水深5mで航行して目標に接近、一度浮上して目標物の位置を確認する。この時、敵から発見されないようにわずかな時間で確認することが求められた。その後何も見えない中、コンパスと時計だけを頼りに突き進むのである。訓練では海中に突入したり、エンジンが止まるなど事故が続出。実戦を前に15名が命を落とした。

元搭乗員1:「潜望鏡を上げたまま浮上して船の底にぶっつけて潜望鏡が折れる。折れると根元が開き、水が入って沈む。溺死です」。
元搭乗員2:「訓練即、死と隣り合わせです。大津島に近づいたとき、エンジンが爆発して沈没しました。太平洋だったら、1000mから2000mの海底に鎮座しておさらばでしょうね」。


回天は海軍に残された数少ない切り札として、強い期待を背負うようになる。レイテ沖海戦から2週間後の12月8日、初の回天隊が出撃した。目標地域はアメリカの前進基地となっている、南太平洋のウルシーである。標的は環礁に停泊しているアメリカの艦隊だった。潜水艦が接近し、搭載されていた回天が次々と出撃した。しかし、目標に到達するのは至難の業だった。搭乗員には、詳細な地図も敵艦隊に関する情報も殆んどなかったからである。
元隊員:「まず一番難しいのは、真っ暗な時にどうやって水道まで行くか。入るのにコンパスだけだから、特眼鏡を上げてもわかりませんよ。地理だって初めてですよ。何回も来ている人だったら、多少違うかもしれない。難しすぎるんですよ」。
人間魚雷・悲劇の作戦


操縦席は真っ暗で身動きが取れない状態。
訓練でも死者を出すなど、人間魚雷として成功するには大変難しかったようですね。







回天が挙げた戦果

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戦争中 148基が出撃し,116人の海軍軍人が搭乗して戦死したが,アメリカ側発表では油槽船,輸送船,駆逐艦各1隻を沈めただけであった。
回天(かいてん)とは - コトバンク


 9人の命と引き換えに挙げた戦果は、この一隻だけだった。その後も同様の奇襲作戦が行われたが、戦果はほとんど挙がらなかった。作戦の失敗にもかかわらず、大津島では残された隊員たちが沸き立っていた。大本営は、回天隊は多大な戦果を挙げたと華々しく発表したのである。空母2隻、戦艦3隻轟沈などと。

当時大津島で訓練していた隊員:
「この時は、一隻しか沈めていないとは知らなかった。回天が5本とも戦果を挙げた事になっているんだから。我々も回天の威力たるや予想通りだと、意気に燃えたというところでしょうね」。

出撃を待つ日々を語る隊員1:
「何しろ次から次へと出撃していくと、飯食う人間が5人、6人と減っていく。そうすると飯食うのも侘しくなって、これは早く出ないと。悲しみとか死なんて、お互い語り合うこともない。これが当たり前だと受け入れていた」。

隊員2::
「精神的に悩むときは、軍歌を歌って慰めた。あとは山に行って、軍刀で竹や木を憂さ晴らしに斬ってみたりして、自分の精神を癒していた」。
人間魚雷・悲劇の作戦

人の命を犠牲にしてまでも決行した作戦はほとんど不発に、、、
二隻しかアメリカ軍の船を沈められませんでした。

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おわりに

命をかけて国を守る!
そういった方がおられたからこそ、いまの平和な日本があります。
いまでは信じられない作戦ですが、そんなことさえも考える余裕がなかったのかもしれません。

争いごとが起こらずに穏やかに過ごしたいものですね。


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